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丹波の巻物 第一巻 『ケメ 』
記事を依頼され、早幾日。
されど主題の決まらぬ日々また日々よ。
あれにしようか、これもいいぞと目移り気移り、汗ばかり。

いやはや恥ずかしきかな、もどかしきかな、我が身の様よ。
これは困った、いかにせんとの嘆きの中で、時に見つけし、このお題。
徒然なるまま、気の向くままよ、え〜い書き込め、やれ進め。
駄文、乱文このうえなしは、我非才ゆえ許してたもれ。
我が意を知るは指ばかり。
文字を打ちたる、この指ばかり〜〜〜。ぺんぺん!
・・・・てなわけで、始まりましたこの「丹波の巻物」。
お題は、先日BBSの話題でも出た、「あの人」のことについて、
この巻物に、気の向くままに記していこうと思います。
まずは、その第一巻。

コラムニスト タンバリンマン
タンバリンマン?丹波燐漫?
日々修行中の某道場でスカウトされた、 旅・楽器・歴史もの好きな「気まぐれ人」。 忍者と勘違いされがちだが(?)、正体は自分でも不明。


第一編  《ケメって誰?》

皆さんは、ケメというフォークシンガーをご存知だろうか?

若い人には、あまり馴染みのないシンガーかもしれない。 なにぶん現在はミュージックシーンからすっかり姿を消してしまっているし、 ネットで検索してみても、現在の彼がどうしているかの情報は・・中々見当たらない。 過去の彼の作品リストは見つかるにしろ・・・である。

ケメ。本名、佐藤公彦。
昭和27年1月9日生まれ。
東京・大田区出身。
デビューは昭和46年。
浪人時代「ピピ&コット」というフォーク・グループを結成。 NTV「歌のチャンピオン」での優勝が、プロの道へのきっかけになったらしい。

岡林信康や高田渡などの後、吉田拓郎や泉谷しげるなどが登場し、 空前のフォーク・ブームが日本の音楽シーンを席巻(?)した1970年代に、 ケメはシンガー・ソング・ライターとして活躍した。

代表曲としては「通りゃんせ」「夕暮れ」「バイオリンのおけいこ」「お昼寝」「メリーゴーランド」などなど。

あいざき進也あたりを彷彿とさせる、まるで女の子のような可愛く華奢な容姿で、 彼自ら作って歌う曲も「乙女チックな曲」のイメージが強かったかもしれない。 また、容姿だけでなく、その歌声までもが女の子っぽく、可愛く高い声。

あの時代、フォークに拓郎や泉谷のような「一種の骨っぽさ」を求めた男性のフォーク ・ファンは、たとえ密かにケメが好きでも、「好き」と公言するのは、ちょっと 恥ずかしいムードがあった気がする。

フォーク・ファンと対立していた(?)、当時のロック・ファンの男性からは 「ケメなんて女の子の聞くものだ」と思われてたふしもある。 (そういえばケメの九州でのライブで、ケメは男性ファンから汚いヤジを飛ばされ、 ステージ上で泣いたこともあるとか。)

まあ、確かに当時のケメのファンは圧倒的に女性ファンが多かったのも、また事実。 その辺もリスナーから「女の子のための単なるフォーク・アイドル」として見られた 理由かもしれない。

デビュー当時、ケメはその可愛いルックスゆえに、フォーク・アイドルみたいな売られ 方をしたようにも見えるし、またある程度それは成功した。 ケメの音楽をまともに聞いたことのない人たちにとって、そのイメージは後々まで 尾を引いたのだろう。 (やがて彼はそのイメージからの脱却をはかるため、色々苦労したようだが・・)

・・・・だが、しかし!ちょっと待ってほしい。 果たして、ケメは「女の子のための単なるフォーク・アイドル」にしかすぎなかったの だろうか?

第二編  《通りゃんせシリーズ》

ケメは・・ケメの音楽は、単なる可愛いフォーク・アイドル(まあ、これはこれで 別に悪いとは思わないが)なだけではなかった。

確かに、そういう側面もあったことは否定しないが、決してそれだけではなかった。 もう一度、彼の音楽を冷静に聞きなおしてみてほしい。 ケメの音楽は、フォーク・アイドルというジャンルで括って済ませられるものではなかったのだ。

全盛期から年月がたち、彼の存在も時の引き潮と共に引いていった今、 イメージからくる妙な先入観念もなく、純粋に音楽の部分だけで見つめなおせるはずである。

音楽やアーティストのジャンル分けの是非は、ケメが活躍した時代にもさかんに議論されていた。 むしろ自称「音楽通」の人達は、ジャンル分けというものを無意味なものとして指摘することも多かった。 (ちなみにこの場合、議論の便利なまとめ方としては「いいものは、いい。悪いものは 、悪い。」というフレーズがあり、やがてこれはギャグにも使われたりもした。)

ケメが彼のキャラクターイメージゆえに、ジャンル分けの中に閉ざされ、 彼の楽曲ごと時の流れの中に埋もれていったのだとしたら、これは大きな損失ではないだろうか。
彼のクリエイトした音楽を、ここに例を挙げて考えてみよう。

作詞家・門谷憲二と取り組んだ、一連の「通りゃんせシリーズ」の楽曲など、もっともっと評価されて残っていてもいいのではないだろうか。

これは、日本的な叙情味あふれる詞の世界観を、童謡や唱歌にも通じるロマンチックで 素朴な旋律に乗せて綴ったシリーズだった。 またそういう旋律こそがケメの作曲の持ち味で、そういう世界によくフィットした。

詞に散りばめられた古き良き言葉や時代と風習。 嫁入り娘、両親を亡くした人の亡き親への情、子供時代の遊戯、悲恋、 人との別れ・・・などの題材が、リスナーの心の琴線にふれる切なさで展開される。

そしてシリーズ全体から伝わってくるのは、郷愁であったり、情景であったり、 時には教訓であったり。 童謡に見受けられるような「陰り」らしきものも顔を出すこともあるが、 ケメのボーカルのせいもあろうが、深刻にはなりすぎない。 (童謡の歌詞には暗い陰が隠されていることが、よくある)

これらの曲を、歌のうまい歌手などがもっと取り上げていたら、 今でも十分に記憶される曲になって残っていたのではあるまいか。

童謡や唱歌をもう一度見直そうという気運が高まっている今だからこそ、 ケメのこれらの曲を誰かがカバーして復活させてくれたら・・・と願ってやまない。 古き日本的なモノの良さを、共に感じさせてくれる「何か」がそこには存在する。

「通りゃんせシリーズ」のアルバム(いわゆるコンセプト・アルバム)「千羽鶴」。 このアルバムのプロデューサーが解説の中で言ってた言葉が、まさにこのシリーズのケメの音楽を表現している。

それは・・・
「小学生からおばあちゃんまで、全ての人に歌ってほしい歌ばかり」。

当時、この「通りゃんせシリーズ」だけは他人に提供せず、自分で歌っていきたい ・・・・と語っていたケメ。 よほど思い入れがあったのだろう。

されど今なら・・・もう他の人に歌ってもらってもOKなのでは?
ケメさん、どうですか?(笑)(←なれなれしい・・・。)

第三編  《ケメとラジオ》

ケメの全盛時を支えたのは音楽だけではなかった。

ケメがパーソナリティを勤めた深夜ラジオ番組も忘れることはできない。 私の覚えているケメのラジオ番組は「Oh!シンディ」と「あおい君と佐藤君」の2番組。

「Oh!シンディ」は確か加藤和彦(トノバン)とケメでやってた番組。 番組で毎回流されてたケメの曲は、後に「あの太陽もっと幸あれ」というタイトルで、ケメの4枚目のアルバム「時が示すもの」というアルバムに収録され、公式発表された 。 もちろんケメ自身の作詞作曲による曲だ。

番組のオープニング曲はサディスティック・ミカ・バンドの 「サイクリング・ブギ」。 で、エンディングで、ケメのこの曲の番組用特別(?)バージョンが流れていたと思う 。

歌詞は・・・

 ♪君の夢を大切に 僕はひとまず眠ります〜
  Ohシンディ〜  Ohシンディ〜

・・・と言う部分を、個人的には断片的に覚えている。 もっと長い歌詞だったはずで、違う言葉も歌われていたはずだが。 (ちなみにLP収録の公式発表バージョンでは「♪Ohシンディ〜 Ohシンディ〜」と歌われる部分は無かった)

また、この番組の途中で、M7(メジャーセブン)系のギターコードのアルペジオにリコーダー(シンセ・リードか?)系の楽器のメロディが被さり、ナレーションが入ってくるコーナーがあったが・・・あるいはそれはCMだったかもしれない・・・。

そして、もう一つの番組、「あおい君と佐藤君」。
これは深夜0時から始まる10分位のトーク番組で、 ケメのパートナー「あおい君」とは、あの「あおい輝彦」のことだ。 (アニメファンには「あしたのジョー」のジョー役の声優としても御馴染み)

「佐藤君」こと「佐藤公彦(ケメ)」と、「あおい君」こと「あおい輝彦」。 はじめ、ちょっと意外(?)な組み合わせにも感じた。

思うに、あおい君はケメと共に番組をやることで、ケメから大いに音楽的な刺激を受けたのではないだろうか。 トークを聞いてると、ケメと音楽的に張り合ってる(?)ような部分も感じられたのは 、私の気のせいか。

デビュー当時ジャニーズアイドルだった「あおい輝彦」だったが、この番組の頃までは私にとっては役者系のイメージが強かった。 (それまでに「二人の世界」というヒット曲はあったが)

だが、この「あおい君と佐藤君」でケメに刺激されることにより、歌手としてもよりフォークやポップス色の濃いヒット曲を出すことになったのでは・・・ 当時はそんな気がした。 「あなただけを」「ハイハイハイ」などは、この頃ではなかったろうか。

番組の初めに、ピンポ〜ンとチャイム(?)が鳴り、
カチャッ・・・とドアを開ける音がした後に、ケメとあおい君のトークが始まって・・ ・・、だが私の記憶ももうこの辺になると、はなはだ曖昧である。 (裏番組では「ジェット・ストリーム」の素敵なオープニングナレーションがあった!)


当時のフォーク・シンガーは、ほとんどTVには出演しなかったが、ラジオは大切にしていた。 ケメだけではなく、拓郎や山本コータローなどもラジオ深夜放送のパーソナリティを担当していたし、また、その番組内ではガンガンに日本のフォークが流されていた。

フォーク・シンガー同士で自分たちのジャンルを共に盛り上げていこう・・という 連帯感みたいなものを感じた。 で、リスナーは、フォークシンガー同士のそんなつながりが、妙にうらやましかったものである。

ケメのトークに関して言えば、中性的な可愛さであったのが印象深い。 ・・・そう、ケメは中性的な魅力に溢れていたのだ。

泉谷や加藤和彦と言った、一癖も二癖もある個性的なフォークシンガー仲間達からも可愛がられていたようである。 デビュー当時は、拓郎にも世話に世話になっていたようだし。
▼あおい君と佐藤君
ニッポン放送の深夜0時からの10分間の番組。
昭和47年4月3日(月)〜〜昭和55年12月30日(火)
月曜日は星占いの日


▼当時の定番はこの後、「たむ・たむ・たいむ」「コッキーポップ」「オールナイト・ニッポン」


▼ジェット・ストリーム
遠い地平線が消えて ふかぶかとした夜の闇に心を休める時 〜

皆様の夜間飛行のパイロットを務めますのは、私、城達也。
花の都パリは午後4時。買い物を終えた主婦が〜
(この部分、1978年頃のある日の記憶)

夜間飛行のジェット機の翼に点滅するランプは〜
お送りしておりますこの音楽が
美しくあなたの夢に溶け込んでいきますように。

第四編・最終回  《私のケメ体験》

私が初めてケメを知ったのは、私が中学生の時だった。

彼がデビューしたばかりの時で、ファーストアルバム「午後のふれあい」や、「唄の市」コンサート(ケメや泉谷などエレックレコードのシンガーが一つのコンサートに、何人も出演していた)のライブアルバムなどが出ていた頃だ。

その頃のケメの印象は、
「なんか女の子みたいだなあ」。 と同時に、 「フォークシンガーなのに、ガット・ギター(クラシック・ギター)弾いてる!」 だった。

まあ、シンガーがどんなギターを弾こうと自由なのであるが、 この当時のフォーク・シンガーが弾くギターと言えば、マーチン、ギブソン、ギルド・・・といったアメリカン・アコースティック・ギターが大半。

で、アマチュア・シンガーはと言えば、そんな高級舶来ギターなど買えるわけがない! いつかは本物のマーチンD-45を!と思いつつ、 拓郎好きはギブソンJ-45を、古井戸好き(チャボがいたデュオ)はギブソン・ハミング バードやダブ、ポール・サイモン好きはギルド、そしてスタンダードはマーチンD-18、28、35等の国産コピーモデルを使う場合が主流だったから、ガット・ギターを使うケメは 異色に思えたものだ。

そう言えば、ケメの曲というのはアルペジオが似合う曲が多かった。 それはガット・ギターで作曲をしていたからかもしれない。 つまり、ケメの作風にはガット・ギターが合っていたわけだ。

で、ケメの印象の話に戻るが・・ケメは「良家のお坊ちゃん」みたいにも思えた。それは、Gパンを穿くフォーク・シンガーが多い中で、ケメはスラックス(?)を 穿いていたせいもあるかもしれない。

大半のフォーク・シンガーは、Gパンにアコースティック・ギター。 ケメはスラックスにガット・ギター。 見た目のこの違いは、けっこう印象的だった。

でも・・私はケメに対して、それ以上の興味は初めはなかった。
(好きも嫌いもなかった)

そんなある日。
友達の家に遊びに行ったら、ケメのLPがあった。 何気にケメのLPを聞かされたら、我が家に帰る道すがら、どうもさっき聞いたケメのメロディが頭の中を回り続けている。 どうも私の中の何かの要素が、彼の音楽に反応したらしかった。 いや、この場合「反応した」と言うよりも、「掴まれた」と表現した方が正しい。

「何かの要素」!
今考えれば、それは自分の中の郷愁にも似た少年部分ではなかったか。 ケメの音楽は、リスナーを純粋な少年少女時代に戻してくれるような気がしてならない 。

この記事を書くにあたって、何度も彼の音楽を聞きなおしてみた。
ボサノバ、ブルース、童謡にも通じる日本調の曲、ポップス、フォーク・・・など、レパートリーはバラエティに富んでいる。

また、さりげない転調、当時のフォークとしては凝ったコード。 ストリングスの入れ方や、ブラスの取り入れ方等、サウンド・アレンジ的にも凝っている。 アイドルスターが歌ってもおかしくない可愛い曲も多い。

だが、当時のただのアイドル・スターと違う点は、ケメの曲は彼自身の作によるものであった・・・という点だ。 おそらく、当時の周りのフォークより洗練されたポップス・サウンドだったはず。 再評価されるに足るケメの楽曲は多いと思う。

当時のインタビューで、「作曲家になるのが夢」と語っていたケメ。
「タモリ倶楽部」でタモリに「ケメの曲って、よかったんだよねえ・・・」と、 しみじみ言わしめたケメ。(ケメは、その時出演してたわけではない)

もっと違った戦略で活動していれば、その才能からして生き残ることもできたかもしれないケメ。

シンガーソングライターになる前は「いつも一人ぼっちだった」と語っていたケメ。

ステージで「ウルトラマンの子供〜〜」なんて茶目っ気たっぷりの曲まで披露していた らしいケメ。 病弱な割には、少林寺拳法をやっていたらしいケメ。

そして、今は音楽活動の情報が全く入ってこないケメ。


・・・・・今、どうしているのだろう・・・・。


この記事を書くにあたり、ケメの資料はファンが管理するケメ関連のサイトを参考にさせていただきました。 また、そのサイトの常連の方々から、有意義な情報を掲示板で提供していただきました 。 また、他にはjun-g様からもケメのエピソードを教えていただきました。 皆様には厚くお礼を申し上げます。


  ◎ 「丹波の巻物」  〜ケメの巻〜   了


*タンバリンマン改め、時代屋だんぞうさんのサイトはこちら>>
*ケメのファンサイト  想い出はあなたと・・・>>
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▼ケメ(佐藤公彦) BEST〜エレック・イヤーズ
98年9月19日発売
エレック復刻計画>>




▼手つなぎ鬼
佐藤公彦著 八曜社 1975




▼ごはんだよ
ジェリー藤尾夫妻司会の料理番組。 エンディング曲はケメが毎回生で歌う「おむすびの歌」でした。




▼オレ、社長の代理
明治製菓ゴリラプレゼント。ゴリラの声/三遊亭歌奴 共演/佐藤公彦。
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